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特別寄稿&インタビュー

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特別寄稿4

1997年の最強チーム

不動の5人

 能代工バスケットボール部には「Aコート」と「Bコート」がある。二面コートの体育館の、ステージに向かって奥がAコート。大会時にユニフォームを着る15人前後が練習する。私より一つ下の代で、日本初のNBAプレーヤーになった田臥勇太と、菊地勇樹、若月徹の3人は入学当初からAだった。

 その他の1~3年生全員が手前側のBコートで練習をした。私自身は、時折Aに行くこともあったが、主にBの住人で、大会になると応援席にいるケースが多かった。

「歴代最強チームはどの代だったのか」とOBの間でも話題になることがある。田臥らは、年間3つある全国タイトル(インターハイ、国体、ウインターカップ)のうち、すべて制する3冠を3年連続で達成した。彼ら3人が3年になったときのチームが最も強いのではないか。漠然とそう考える人も多いかもしれない。

 しかし、私が知る限り、田臥らが3年のとき(1998年)よりも、2年のとき(1997年)の方が強かったというのがOB間での定評だ。自分もやはり、そう感じる。

 97年の京都インターハイ決勝は地元・洛南高校(京都)と対戦し、120-58のダブルスコアで圧勝した。大会前から、優勝することは分かっていた。当時、大学生のOB相手に試合をしても、負けることがなかったからだ。

 毎年、インターハイを控えた7月半ばになると、大学生のOBが能代に集結し、胸を貸す。それは「OB戦」と呼ばれ、日々の練習が5対5のゲーム形式に切り替わる。

 関東大学リーグの1部や2部で活躍する先輩たちだ。高校生とはパワーも技術も違う。例年、何回やってもなかなか勝てないのが普通だ。

 だが、97年は前年に3冠を取ったスタメン5人がそのまま残った。田臥、菊地、若月の下級生3人に、畑山陽一、小嶋信哉の上級生が2人。コンビネーションに磨きがかかり、大学生には負けなくなっていた。

 そのため、この年は、実業団のOBも大勢来てくれた。全日本選手の長谷川誠さんを筆頭に、佐藤信長さんや小納真良さん、金子寛治さん、三浦祐司さんら、そうそうたるメンバー相手のOB戦だった。

コート中「罠」だらけ

 国体もウインターカップも、100点ゲームで優勝した。オフェンスに破壊力があり、ほとんどは、ファストブレークや速攻崩れのアーリーオフェンスだった。そのアップテンポなリズムは、主にディフェンスから作り出されていたように思う。

 加藤三彦監督時代の能代工は、相手1人に対し1人がマークするマンツーマンディフェンスではなく、伝統のゾーンディフェンスを採用していた。オールコートの「ツー・ツー・ワン」から、ハーフコートに戻って「ツー・スリー」を敷く。ときには「ワン・スリー・ワン」にも見えるアメーバのような陣形だった。

 相手の足元までへばりつき、シュートもドリブルもさせない、というディフェンスではなかった。むしろ真逆で、ポイントは「あけておいて狙う」、あるいは「やらせておいて狙う」だった。

 例えば、ハイポストにボールが入るとする。すると、シュートを打たれないよう距離は詰める。ただ、左側か右側、どちらかをわざとあけ、相手がドリブルで抜きたくなるような位置を取る。誘い込んで、一つ目のドリブルをしたとき、ガードが後ろからすっと手を伸ばしてカットする。

 バスケ経験者なら分かるだろう。目の前があいていたらドリブルで相手を抜きたくなるし、ノーマークの仲間を見つけたらパスをしたくなる。人間の心理につけ込んだ「罠」をコートの至る所に仕掛けるディフェンスだった。

 罠に引っかけてボールを奪うことを部員の間では「はめる」と呼んだ。応援席から見ていても、「はまりそうだな」というのが分かった。それを察知して私たちは、相手がなるべく焦るように、応援のリズムを切り替えていた。

「相手がこう動いたら、こう動く。ああなれば、こうなるみたいなことが、コートにいる5人もベンチも分かっていた」。当時、シックスマンとして活躍した斎藤直樹はこう語る。

「相手にとっては、攻めているのに、攻められているような感覚だったんじゃないか」

破壊的な攻撃力

 そんなディフェンスからボールを奪い、攻めに転じるまでのスピードはものすごく速かった。5人の走るコースは決まっていて、田臥が右、菊地が左のウイング、小嶋と若月はゴール下めがけて走り込む。ボールを運ぶ畑山は、なるべく早く田臥にパスを出した。

 右45度から田臥がドリブルで切り込んで、逆サイドの菊地にパスをさばき、3Pを打つプレーがよく決まった。我々の間では、普段、何回も繰り返して練習する、基本中の基本の動きだった。

 シンプルなプレーなのに相手が止められなかったのは、小嶋と若月が常に走っていたからだろう。

 自陣のゴール下から、敵陣のゴール下まで到達する間に、相手のビッグマンを置き去りにする脚力が彼らにはあった。走力もさることながら、走り出すタイミングも絶妙だった。

「相手がシュートを打った位置と軌道から、だいたいどの辺にボールが落ちるのか分かる。勇樹や若月の方に飛ぶな、リバウンドが取れそうだなと思った瞬間にスタートを切った。少しでも速く、無駄足を一歩も踏まないように、最短距離を走る練習をしていた」。小嶋はそう振り返る。

 ゴール下のノーマークは即失点につながる。だから、相手は小嶋や若月をケアしないといけない。すると外の菊地があく。仮に菊地がマークされたとしても、今度は畑山がいた。トップからの畑山の3Pは正確だった。

 どのプレーを選ぶかは田臥の役割だった。自分でドライブして切り込んだり、ワンドリブルでジャンプシュートしたりすることもできた。相手が対応できないぐらい、展開が速かった。

ポジションの妙

 このスタイルが確立したのは、田臥らの入部から数カ月後にあった東北大会準決勝で、佐藤久夫監督率いる仙台高校に負けてからだ。残り5分の勝負所で、田臥が5ファウルで退場。そのことが敗因に挙げられることも多い。田臥らが3年間で唯一、公式戦で負けた試合として知られている。

 このときまで、田臥と畑山のポジションは逆だった。つまり、田臥がPGで、畑山がSG。トップの位置に田臥がいて、右45度でプレーするのが畑山だった。

 会場を後にする帰りのバス。出発して間もなく、一番前の席に座っていた三彦先生が「畑山、田臥、ちょっと来い」と言って2人を隣に座らせた。そして、作戦盤を開き、駒を動かし始めた。次の日の練習から、2人のポジションが入れ替わった。

「なぜあのとき、ポジションをチェンジしたのか」。最近になり、改めて三彦先生に尋ねたことがある。

「あのときは、PGがトップの位置から指示を出してゲームコントロールし、SGが切り込み隊長的な役割をする時代。中に切り込んで点取り屋にもなれるし、パスで味方を生かすこともできるのが田臥の良さなのに、それを消してしまっていた」

 ポジションを変更しただけなのに、攻撃力が爆発的に増した。「田臥は一緒にプレーした人を幸せにしてくれる選手だ」。三彦先生はこう語る。

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