サイト限定

特別寄稿&インタビュー

発売記念

1998_9冠.jpg

前人未到の9冠を達成した直後の集合写真。最前列右から2人目が加藤廣志元監督、2列目右端が田臥勇太選手、3列目左から2人目が前田浩行氏

大事にしていた三彦先生との信頼関係

 僕はメンバーに入っていないときもデータ係としてAチームに帯同していたので、マネージャーの仕事にはすんなり入れました。最初はBコートの練習指示から入り、3年生になってAコートを担当します。主な仕事としては、練習に必要な道具(作戦板、チョーク、ナンバリングシャツ、笛、ストップウォッチ、練習ノート等)を揃える準備に始まり、時計の針が15時半を指すと同時に、僕の笛でウォーミングアップを開始。練習中も指示を出します。

 マネージャーとして僕が一番大事にしていたのは、三彦先生との信頼関係でした。体はコートに向いて指示をしているけれど、全神経は三彦先生に向けていました。三彦先生が練習メニューを切り替える言葉やちょっとした仕草や表情、すべてを聞き逃さない、見逃さないようにしていました。当時、三彦先生はアンダーカテゴリーのコーチをしていたので、不在のときが多々ありました。そんなときは、三彦先生がいるときと同じ雰囲気で練習をさせるのが僕の役割です。

 試合に登録するメンバーについて相談されることもありました。三彦先生は僕とキャプテンの勇太に「あいつ頑張っているか?」「こいつとこいつ、どっちが頑張ってる?」と聞いてくるので、僕らは頑張っている選手を推しました。最終的なメンバー選考は練習を頑張っているかどうかが判断基準だったので、三彦先生はその頑張りを僕らに聞いてくるんです。そこは、僕と勇太をすごく信頼してくれていたのだと思います。

田臥フィーバー&ミステリアスな能代工

 当時の能代工人気は異常でしたね。どこに行っても注目されて、特に勇太の人気はすごかった。本人は「そんなに人気があるとは感じなかった」と言ってるみたいですが、実際には、それはもう大変でしたよ(笑)

 僕らのときは部長の安保敏明先生がすべてコントロールしてくれました。部長としての仕事以外にも、メディアの取材からファン対応まで、すべて安保先生が仕切ってくれたんです。安保先生が裏で支えてくれたからこそ、あれだけの人気があっても浮かれることもなく、混乱することもなく、僕らは日々の練習に集中することができました。

 今になって考えるんですよ。どうしてあんなに人気があったんだろうかと。僕らは試合中に笑わないし、表情も変えない。それなのに、めちゃくちゃ走って、めちゃくちゃ強い。そりゃあ、ミステリアスすぎて惹きつけますよね(笑)。インターネットがそこまで普及していない時代ですから、田臥勇太がどんな練習をしているのか、菊地(勇樹)のスリーがなんであんなに入るのか、そういう情報は雑誌やテレビから得るしか方法がなかった。会場が満員になったのも、ミステリアスな高校生が一生懸命に頑張る姿を楽しみに見に来てくれた方が多いのではないでしょうか。

 逆に言うと、今のように何でも動画やSNSで出てしまったら、情報が多すぎてそこまでの人気はなかったように思います。僕らの時代は情報が少ないことがよかった。外の情報が入ってこないから、自分たちのやるべきことに集中すればいいので、9冠が懸かってもそこまでのプレッシャーはありませんでした。むしろ今のほうが大変ではないでしょうか。今は最新の試合動画からライバルの情報まで、何から何まで表に出てしまうので、他のチームと比べたりしてメンタル的に大変だと感じます。9冠達成はいろんな要素と時代背景代が重なって達成できたものだと言えます。

能代工はなぜ強い? 「徹底」に秘訣あり

 高校3年間はまったく負ける気がしませんでした。理由としてはチーム内の信頼関係もありますが、勇太の影響が大きかったと思います。勇太はあれだけメディアに取り上げられていても、一切奢ったところがない。試合に出ない下級生とも仲がいい。一番うまい選手が偉そうにしていない。そうした雰囲気がチームのムードを良くしていたのだと思います。

 何度も言いますが、とてつもなく緊張感のある練習をしていたので、スリーメンでノーマークのレイアップを落とす選手がいないんですよ。能代工ではそれが当たり前だと思っていたので、高校を卒業してから、練習でレイアップを落とすこともあるんだとわかりました(笑)。能代工の場合は、練習の方が試合より緊張感があるので、その集中力が試合に発揮されるのだと言い切れます。

 また、僕らは勝ち続けていた時代なので、何かを変えるということがなく、いかに先輩方が築いてきた伝統を徹底するかでした。ただ、3年になったときに三彦先生に言われて覚えているのは「6冠は先輩たちが成し遂げたもの。君たちの代ではまだ優勝していない」という言葉で、これは身に沁みました。自分たちの代で優勝することが大事で、そのために、いかに練習から一つ一つのことを徹底してやれるか。それがAコートの練習を見ていた僕の使命でした。

 そして試合になれば、練習で培った集中力を発揮するだけです。相手がゾーンでもマンツ―でも関係ない。いかに自分たちのペースに巻き込むか。いかに自分たちのやるべきことをやり続け、相手がへばってきたところを一気に畳みかけるか。僕らは相手がへばるのを待っているから、それまでひたすら徹底、徹底、徹底。相手が目の前でごちゃごちゃ動いていようが、常に“無”の境地でやるべきことをやって走るだけ。それを50人、60人の大所帯が、コートでも、応援席でも、誰一人乱すことなく一つになって徹底する。そりゃあ、とてつもないパワーになりますよね。その徹底ぶりはまるで“修行”のようでした。そう、能代工での3年間は修行だったのです。

能代工のマネージャーとして学んだこと

 今、コーチングやデータ分析をする仕事に就かせてもらい、ヘッドコーチの欲していることを自分なりに観察し、気配りや目配りができるように心がけています。これはミニバスから始まり、高校時代に叩き込まれたものです。

 三彦先生は、試練を乗り越える経験の場を僕らにたくさん与えてくれました。人間性を高めるためです。今の時代は戦術を優先させる若いコーチの方がたくさんいます。もちろん戦術は重要で必要なものです。スキルも身につけなければならない。けれど成長過程の高校生には、若いうちに経験しなければならないことがたくさんあります。何よりも、チームに魂を注入しなければ勝つことはできない。その魂を全員で作るのが能代工であり、全員が同じ目標に向かい、一人一人が役割を徹底する責任感こそが大切なのだと学びました。

 人生においても同じことが言えます。大変なことが起きても、長いスパンで見れば試練は乗り越えられるものだと信じて取り組んでいます。乗り越えた先には喜びや達成感がある。それが能代工での日本一でした。だから能代工の選手は優勝すると、思いっきり喜んで笑います。そんな9度の優勝を、最高の仲間と三彦先生と成し遂げられた高校3年間は僕の財産です。修行の毎日は大変でしたけどね(笑)

前田 浩行 まえだ ひろゆき
1980年生まれ、愛知県出身。岡崎子ども教室→洛西中→能代工高→中京大。ミニバス、中学、高校で日本一となり、能代工ではマネージャーとして9冠に貢献。安城学園高、トヨタ自動車(現・アルバルク東京)でのアシスタントコーチを経て、2013年よりドイツブンデスリーガ1部のMHPリーゼン・ルートヴィヒスブルグにてアシスタントコーチ兼ビデオコーディネーターとして活動。2017年より日本バスケットボール協会テクニカルハウス部会に所属し、現在はアンダーカテゴリー(U16~U19)のアシスタントコーチ兼テクニカルスタッフとして活動する。
DSC_1649.jpg
小永吉 陽子 こながよし ようこ
スポーツライター。『月刊バスケットボール』、『HOOP』編集部を経て、フリーランスのライター・編集者となる。日本代表から学生年代までジャンルを問わずバスケットボールの現場を駆け回り、国内だけでなくFIBA国際大会など幅広く取材を行う。