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特別寄稿&インタビュー

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田臥という衝撃

 田臥を初めて見たときの衝撃は忘れられない。私が1年の秋ごろ、中学3年の彼が練習に参加した。最初は体育館の端の方で、困ったような表情を浮かべ、もじもじしていた。「また来たな」と私は思った。

 その頃、能代工の練習に中学生が参加することはよくあった。中学ではすごくても、高校生は体の強さもスピードも全然違う。気迫に圧倒される中学生が多かった。

 練習は激しいフットワークから始まる。一番きつくて、嫌な練習だ。見たところ、田臥は足が遅かった。やっと付いてきている様に見えた。

 ポジションごとに分かれ、ガードの「突破練習」に移った。Aコートのガードが2人のディフェンス相手に、端から端までドリブルだけで突破する。いわば、オールコートの1対2だ。それを田臥がすることになった。

 ディフェンスはBコートにいる私たち。Bとはいえ、毎日の練習で足腰は鍛えられていた。突破するのは、簡単なことではなかった。まして、初めての中学生にはほぼ不可能に思えた。

「やらせるなよ」。先輩からそう言われ、もう1人の1年と一緒に田臥に付いた。「能代工の厳しさを教えてやれ」という意味だった。

 ディフェンスは、ライン際に追い込みながら1人がコースを塞ぎ、相手がたまらず方向転換した瞬間をもう1人が狙うのが基本だった。

 きちんとコースを押さえた。田臥がロールして切り返す。いつもなら、そこで取れるはずだった。しかし、なぜか田臥のボールに触れなかった。ひゅっとボールが消えたようにも感じた。

 中学生にあっさり突破を許し、ふがいない気持ちになった。でも、そのすぐ後、田臥は、よりディフェンスが強烈な2年の先輩をも突破していった。スピードはない。多分、強弱のつけ方がうまかったのではないか。まるで、花畑の上をひらひら舞って行くチョウのようなドリブルワークだった。

 5対5のゲームになると、「普段はそれほど…」という選手が、突然、田臥のパスを受けて活躍しだした。いつもならパスが出ないタイミングでパスが来るためか、ボールをファンブルする人もいた。右利きなのに、左手でドリブルをついて、そのままドッジボール投げのパスをゴール下に通したときは驚いた。「次元が違う」と思った。

 菊地もまた規格外の選手だった。身長が190センチもあれば、主にインサイドでプレーするのが当たり前の時代だ。実際、中学のときの菊地はそうだった。だが、三彦先生はシューターとして、外から3Pをどんどん打たせた。シュートモーションが速く、打点も高い。だから、目の前にディフェンスがいたとしても、軽々とシュートを打つことができた。

 速攻の際、確実に2点を取りにいくような場面も三彦先生は「田臥、ワン・ツーだ、ワン・ツー」と叫んだ。パスを受けたらすぐにシュート、という意味だ。それはあの代で言えば、おおむね「菊地に打たせろ」だった。速攻3Pは今でこそ珍しくないが、20年以上前は常識外れのプレーだった。

 若月はゴール付近のポストプレーが得意だった。脚が何本もあるようなピボットで翻弄する巧みさと、少し離れたショートコーナーから柔らかいタッチでジャンプシュートを打つ器用さがあった。練習熱心で、いつも大量の汗をかき、髪の毛が束になった。

 上級生の畑山と小嶋も能力は高かった。やろうと思えば、いろいろなプレーができたはず。いずれも、中学時代は派手なプレーが好きだった。でも、あえて、畑山はボール運びとディフェンスに、小嶋はリバウンドと走ることに自分の能力を限定させた。その方が、チームとして強いことを知っていたからだ。

 徹底的な役割分担によって、プレーの展開がさらに速くなったと小嶋は言う。

「役割が決まっていたから、誰がどう動くのか予測ができた。『ここを走るとパスが来るはず』と思えばパスが来る。その都度、時間をかけずに判断できるから、バスケがどんどん速くなる」

 煎じ詰めれば、おのおのが自分の役割に徹したことが、97年の強さの秘訣だったと思う。

 それは単に、試合に出る選手に限らず、部全体に浸透した、勝つための哲学だった。

「三本柱」の大原則

 当時のBコートには、Aコートにいてもおかしくないプレーヤーがごろごろいた。田臥らの代で中学時代に全国優勝したガード・前田浩行もBにいた。年に1度、能代工Aと能代工Bの2チームが出られる県の大会があり、97年はAとBが決勝で対戦した。三彦先生が前半と後半で、双方のベンチを行き来する珍場面もあった。

「うちらはAに負けないよ」。そんな雰囲気がBコートには充満していた。それだけの練習はしていたし、Aコートの選手もBコートの実力を認めていたはずだ。

 公式戦のベンチ入りメンバーは、必ずしも実力順ではないのだとみんなが分かっていた。毎年勝つことを求められるチームは、下級生に経験を積ませる必要がある。これも一つの役割分担と理解していた。

 チームにとって、一番の優先順位は勝つことだ。能代工の速いバスケで日本一になりたくて、親元を離れ、並々ならぬ覚悟で入部した。全国優勝して当たり前。日本一以外は許されない。究極の勝利至上主義だった。

 とは言え、単に勝つことだけを目指していたわけでもなかった。勝つために試行錯誤する過程の中にこそ、最も大事なものがある、とも信じていた。

 思い出すのは入部した日の夜のこと。2年の先輩から生徒手帳を借り、部の約束事を書き写して覚えなければいけなかった。まず初めに「三本柱」と呼ばれる大原則が来る。「礼に始まり礼に終わる」「練習は無断で休まない」「集合は素早くダッシュ」。その下の方にある問答風の一文が目にとまった。「何のために能代に来たのか:人間性を高めるためです」とあった。

 みんな、バスケをするために能代工へ入った。バスケだけ一生懸命やっていればいいと思っていた。しかし、そんな考えではダメだというわけだ。「バスケ部員である前に一高校生、一人間だ。日本一のバスケを通して、人として大きく成長することを目指せ」と諭されているようだった。

 だから、練習はもちろん、掃除も応援もあいさつもオフィシャルも、何でも全力で取り組んだ。あの時代、あの体育館には、そんな人間がたくさん集まっていた。

石井さんコラム.jpg

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石井 紀代美 いしい きよみ
1979年、秋田県生まれ。能代工バスケットボール部時代は3年間で8回全国優勝を経験。現役時代の得意なプレーはミドルからのジャンプシュート。一般企業就職を経て、東京学芸大学教育学部(国際理解教育課程欧米研究専攻)を卒業、一橋大学大学院社会学研究科修了。2007年に中日新聞社に入社し、現在は東京本社(東京新聞)特別報道部に所属する。