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特別寄稿&インタビュー

発売記念

特別インタビュー

前田浩行氏

(99年卒、JBA技術委員会テクニカルハウス部会 部会長) 

能代工で“修行”した

3年間は人生の財産

小永吉陽子

(取材・構成)

「マネージャーが優秀な代は優勝する」――能代工の必勝不敗神話は選手のみならず、優秀なマネージャーたちによって築き上げられてきた。田臥勇太(宇都宮ブレックス)とともに9冠獲得に貢献したマネージャー、前田浩行もその一人。岡崎子ども教室、洛西中で日本一を経験する王道を歩み、能代工では気配りと統率力でチームを束ねてきた。伝説の9冠時代のマネージャー前田浩行に、加藤三彦監督の右腕となった3年間を振り返ってもらい、「能代工のマネージャー論」を語ってもらった。

田舎すぎて衝撃だった能代の街

「日本でいちばん強い高校に行きたい」――僕が能代工を選んだ理由はこれに尽きます。ありがたいことに、いくつかの高校から勧誘がありましたが、「やるなら一番になれ」と父親の強い勧めもあって、能代工に進学を決めました。勇太(田臥)とは全中の準決勝で対戦してそのすごさは知っていたので、高校でチームメイトになるのがすごく楽しみでした。

 希望に胸を膨らませて入学したのですが、能代工の環境は想像以上に厳しいものでした。言葉ではうまく表現できないのですが、体育館には独特の雰囲気があり、とてつもない緊張感の中で練習が行われるのです。全体練習は2時間前後で終わるので特別に量が多いというわけではないのですが、「絶対にミスできない、してはいけない、そのミスが勝敗につながる」という緊張感と集中力に圧倒されました。1年の頃は試合に出られない悔しさというよりも、その日を生き延びることに精一杯でした。

 とにかく、入学前に思い描いていたものと違ったんです。能代の街は想像以上の田舎だし、冬は吹雪いてばかりで寒いし、能代弁は何言っているかわからないし、僕らの頃は上下関係が厳しい時代だったし……。いろんなことが中学時代とは変わりすぎて衝撃を受けました。もちろん、入学前には練習会に行って三彦先生や先輩から「バスケ部に入ったらこうだぞ」みたいな話は聞いていました。けど、入学前は皆さん優しいですから、いいことしか言わないですよね(笑)

悔しい思いをした2年の京都インターハイ

 2年生になると厳しい環境にもだいぶ慣れてきました。試合には出られずにBコート(Bチーム)での練習ではありましたが、Aコート(Aチーム)入りを目指して、ひたすら一生懸命に頑張っていました。ミニバス時代から、礼儀など厳しい指導で知られる岡崎子ども教室で鍛えられていたので、根気強く頑張ることには自信がありました。そして、その頑張りを見てもらえたのか、僕はデータ係に抜擢されることになりました。データ係というのは、名前の通り試合のデータを取る役割なのですが、試合には出られなくても登録メンバーと行動を共にし、チームの勝利に貢献するとても重要な仕事です。

 そんな重要なポジションを与えられた僕ですが、2年の京都インターハイはとても悔しかったことを覚えています。決勝の相手は地元の洛南で、洛西中時代のチームメイトが2人いました。京都ですから洛南以外にも知り合いや恩師が見に来てくれました。それなのに、僕は試合のデータ取りをしている。重要な仕事をしているとはいえ、京都の大会で試合に出られなかったことは相当悔しかったです。

 当時の能代工には、試合会場で他チームの選手と話してはいけない決まりがあったのですが、京都インターハイでは知り合いが僕に話しかけてくることもありました。でも僕は思いっきり無視ですよ。今みたいにLINEとかスマホがあったら、あとで「ごめん」とメッセージを入れるのですが、当時はそんなものないですから(笑)。洛西中のチームメイトには「京都に残れば試合に出られたのに、なんで能代に行ったんだ」と言われたこともあります。そこはちょっと辛かったですね。

田臥勇太の「よろしく頼むな」の一言

「マネージャーをやってほしい」と三彦先生に言われたのは、2年の国体が終わった頃でした。これまで、この話はあまり言ったことがないのですが……当時の僕は心のどこかで試合に出られない自分に対して逃げ道を探していたのかもしれません。おそらく、プレーヤーを続けていたら試合に出られずに終わっていたと思います。野心があって能代工に来たのに、その他大勢で終わってしまうかもしれない……。そんなときにマネージャーの話がありました。

 これは先輩方からよく聞くのですが、「マネージャーになってくれ」と言われてショックだったという人が多いようです。でも、僕の場合は「三彦先生が自分を必要としてくれている」というのが伝わってきたので、自分の居場所を与えてもらったことに、複雑な心境ではありましたが、ショックはなかったですね。

 ただ、すぐに承諾はしませんでした。というか、できませんでした。「僕はいいけれど、チームメイトが認めてくれないとできないです」と返事をすると、三彦先生が部員の前で「前田にマネージャーを頼みたい」と言ってくれて、みんなが認めてくれたのです。今でも覚えています。マネージャーになると決まったときに勇太が僕のところに来て、「よろしく頼むな」と声をかけてくれたことを。勇太は人の気持ちがわかる選手だから、僕の気持ちを察してくれたのでしょう。勇太の言葉で僕はやる気になっていましたね。

 この頃から「将来は指導者になりたい」という思いが芽生えていたので、能代工でマネージャーになったことは僕の転機でした。そして、これだけは言えます。能代工でなければマネージャーはやりませんでした。能代工だからマネージャーになったんです。それくらい、能代工のマネージャーは重要な役割だと自負しています。

口絵使用写真_前田さん.jpg

1998年のウインターカップにて、加藤三彦元監督(ベンチ左端)の隣で戦況を見つめる前田浩行氏。マネージャー時代の経験が今につながっていると言う

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